音楽を最近は聞かなくなった。いや、聞いていなかった。
久しぶりに音楽を聞いたら、心が凪ぐのを感じた。
みなさんは音を聞いていますか。
最近の私は音を聞いていたのだろうかと疑問に思います。
言葉や、音楽は本当に私の心にまで響いていたのでしょうか。日常の音をいつからか聞かなくなってしまったようです。
木々は風に揺れ、虫はかすかな音で声を上げています。鳥は鳴き、花は咲います。自然の音はいつのまにか大きな声にかき消されてしまいました。特に東京ではそうです。車は行きかい、広告の音楽は求めてもいない音楽を鳴らし立てます。
以前、Twitterで見かけたのですが、「田舎の暮らしは静かでいいという人がいるけど、カエルや虫の声でうるさいぞ」といった内容だったと思います。とてもRTされていて、僕のところまで回ってきましたが、自然の音のうるささならばいいのではないかと思いました。
あの音は自然です。
忘れがちなのが人間は自然の一部であるということです。虫や鳩が嫌いな人や、自然の音をうるさいと思う人、植物に触れたことのないような人がたくさんいます。大きく見れば同じ自然の一部でしかありませんし、小さく見れば細胞、原子の集まりでしかありません。
人間はいつから自然を外部に対置してしまったのでしょうか。考えることはそんなに高尚なことでしょうか。心が生まれて、むしろ生きづらくなっているのではないかと思います。
人間は心をもったことで、自然の枠組みから抜け出しました。でもそれによって自然の中で生きていたころにはなかった、「心の病」を手に入れてしまったのです。
心にとらわれると病に陥ってしまう。これを仏教的に言うと「生死(しょうじ)にとらわれる」ことになるのでしょうか。生死は絡まった紐のような、凝り固まったものです。固まった生死を解(ほど)いて、ほとばしらせなくてはいけない。
もしかしたら音は生死を解いてくれるものかもしれないと思うようになりました。
アマゾンの奥地の太鼓のリズム、焚き火の燃える音から、貝に耳を当てたときに聞こえる海の音まで。世界は素敵な音に満ち溢れています。ただ僕らが聞かなくなっただけです。
音は波です。お寺にいくと瞑想の前に鐘がなります。その音が鳴り響いて、そしてフェードアウトしていくときに、心が凪いでいくのを感じます。
色んな情報が外からやってきて、僕らの心は波立っているのでしょう。天候の悪い日の水面のように。波が立って、ずっと荒れていては心が疲れてしまう。たまに凪が必要です。
実は一年前にリトアニアから帰ってきたときに、東京の生活に息苦しさを感じて、知人に相談したことがあります。彼は東京でゆうゆうと行きていました。少なくとも僕にはそう見えたのです。
東京にいると息苦しさを感じる。どうやったらそんなに落ち着いていられるのですか?と訪ねました。
かれは僕に<凪を見つけるといいですよ。>と言いました。昔、川で泳いでいると、波に抵抗して体力が奪われる。なのでたまに石の影に隠れるわけです。石の影になる部分は波が全くこなくて、そこでなら休憩することができる。<そこが凪です。東京の中でも凪をみつけるといいと思います。>そう教えてくれました。
そして今、音楽は一つの凪だとわかった気がします。音楽は波で、心の波長を整えてくれます。
イヤホンをして世界の音を聞かなくなって、それは悪い事のように感じていました。もっと自然の音を聞きなさい、と。
でも音楽は心に凪を与えてくれる。そして、自然の音はさらに凪を与えてくれるでしょう。
イヤホンは世界から逃げる手段です。でも世界から逃げないで溶け込めるようになったらもっといいと思います。東京は逃げたくなる場所です。音から。生から。
でも、凪がみつかればなんとか少し休むことができる。
そう考えると音楽が持つ力というものを再認識します。


















