THINKING LIFE

小説を読むということ

いま、遠藤周作さんの「沈黙」を読んでいる。

この本はキリスト教が禁止され、弾圧されていた時期の日本を舞台にしている。特に九州の長崎が舞台だ。

先週末に私は長崎に訪れ、いくつかキリスト教の弾圧と関わる教会や土地を回ってきた。其の中で遠藤周作文学館を偶然見つけ、足を運んだ。

小説が特に時代物だと、僕らは実際の場所とリンクさせて考えることが出来る。長崎の9「大村」でと言われれば、あの町並みがなんとなく思い浮かぶ。

そしてこの「思い浮かぶ」というのが、小説の特徴だ。

いま、みなさんが娯楽として利用するのはYou Tube、netflixや漫画などが思い浮かぶのではないだろうか。それらに共通するのは、絵や音声で直接楽しめるということだ。

漫画は絵で、netflixやYou Tubeは動画で楽しんでいる。

しかし小説は、言葉だけを頼りに自分でイメージしなくてはいけない。私が小説を読むときのことを考えてみた。いままでじっくりと考えたことはなかったのだが、よくよく考えてみると、私は登場人物の顔をほとんど思い描けていない。

円形から眺めるようにしているときはクリアなのだが、表情を見ようとすると霞がかったようになっている。それで読んでいるのだから面白い。

小説は「絵」がない分だけ自分の想像力に依存する。想像力と体験に依存している。

小説を読んでいると、自分の人生や経歴が引き出されて、物語に奥行きを与えている。例えば、物語もなかのキャラクターが山の峰を歩いているとき、自分の頭の中の風景は三峰山にのぼったときに見た景色を背景にしている。

だから同じ小説を呼んでも、誰一人として同じ光景を思い浮かべては居ないはずだ。それは作者もそうだ。

そう思うと、大学受験のときに、登場人物の心情を答えろだの、選べなどというのは、ひどく小説の面白さをそこなっているのではないだろうか。