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読書という行為『塩一トンの読書』須賀敦子さんより

こんにちは。しんいちです。

今日は熱海に来ており、少しゆっくりと、仕事のことを忘れて本を読む時間を手に入れた。最近はずっと本を読みたいと思っていたのですが、仕事や家事に追われてなかなかゆっくりと読む時間がなかったからだ。

今日は熱海の海に面したホテルのベランダに椅子を置き、日がくれていくのを眺めながら須賀敦子さんの「塩一トンの読書」という本を読んだ。この本は須賀敦子さんの読んだ本や、見た映画にまつわる33のエッセイになっている。

わたしはエッセイという形式が好きだ。決して全てが物語ではなく、その人のぼんやりと考えたことや、感じたことを直接読むことができて、少し作者と近づけた気がするのだ。

・塩一トンの読書とは

2003年四月に出版された河出書房の本書の帯には、以下のように書かれている。

ずっと以前に読んで、こうだと思っていた本を読み返してみて、前に読んだときとはすっかり印象が違って、それがなんとも嬉しいことがある。それは、年月のうちに、読み手自身が変わるからで、子供の時には喧嘩したり、相手に無関心だったりしたのに、おとなになってから、なにかのきっかけで、深い親しみを持つようになる友人に似ている。一トンの塩を舐めるように、ある書物がかけがえのない友人になるのだ。

ここで言及されている「塩一トン」というのは、少し理解しがたいかもしれない。この言葉は筆者がお姑さんに言われた以下の言葉に起因する。

「ひとりの人を理解するまでには、すくなくも、一トンの塩をいっしょに舐めなければだめなのよ」と。

言い換えれば、一トンもの塩を舐めきるのは容易なことではなく、人のことを知るのもそれだけ簡単ではない、という意味だ。

筆者はこの言葉を読書にもあてはめている。

一冊の本でさえも、理解することは容易ではない、と。

・他人の読書を読むという経験

この本では全体に須賀敦子さんの膨大な知性に裏付けられた書評が繰り広げられている。書評というと少し堅苦しいかもしれない。彼女が人生で経験した様々な出来事と、その本を読むに至った背景。本が人の生活の中にあること、そして須賀さんの言葉で語られ得る魅力的な作品の数々。ついついどの本も読みたくなってしまう。

・自分が本を読む上で感じているもどかしさへの共感

彼女が一読者といて感じているもどかしさは、本を読んでいる人ならばつたわるだろう。読めない本がたまっていくこと、海外の作品を翻訳する前の原文でよみたいのに、語学力が足りないためによめない口惜しさなど。端々に現れる読書するものとしての須賀さんの姿に、共感するとともに、彼女のようにすばらしい言葉の数々を紡げたらと思う。

・あとがき:須賀敦子という「ものがたり」

あとがきは須賀敦子さんにお世話になったという青柳裕美子さんが寄せている。青柳さんが須賀さんから聞いたという言葉の中で、以下の言葉は非常に印象的であり、同時に感動的だった。

「話したことは一秒後にはすべて、ものがたりになるのよ」

声だけはそこにとどまらない。

だから一遍上人は踊念仏を唱え、声の刹那性に希望を見出した。

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