日々のこと

一つ前の時代を言葉にしてみる:『井上ひさしの読書眼鏡』

こんにちは。しんいちです。

もうすぐ平成が終わり、令和を迎えようとしています。そんな日に、家の片付けをしていて見つけた『井上ひさしの読書眼鏡』を読んでいました。この本は劇作家の井上ひさしさんが書いた書評集で、独特のユーモアな語り口で暖かく本について書いています。

この本の中に「絶望からつむぐ希望の言葉」という章があります。この章で取り上げている本は「20世紀の定義」であり、21世紀になった直後に20世紀を振り返る内容になっています。その中で、20世紀から21世紀になったことをただ浮かれているような世間の風潮に警鐘を鳴らす以下の一節があります。

世間の気分が、新しい世紀にばかり目が行っていて、過ぎ去った世紀をしっかり言語化しようという動きに乏しいことに少しばかり不安を抱いていました。

p25

いま、年号が変わろうとしているその夜に、この本に出会ったのは天啓のような気すらしています。来る時代を愉しみにするだけで、過ぎ去った時代のことを考えていませんでした。

卒業式しかり、毎日の終わりしかり、なにか節目というのは節目以降に不安と期待をいだきつつ、今までを見直す機会になります。

参考までに21世紀を迎えた人々は、20世紀をどのように見たでしょうか。井上ひさしさんの文章をもとに見ていきます。

20世紀の定義とは

<二十世紀はこれまでの世紀のうちで、最も多くの人命を救った世紀であると同時に、戦乱や強制収容や虐殺により、過剰集中や過剰流動や超大量生産により、生活習慣の改変や環境の破壊により、最も多くの人命を奪った世紀…>(古井由吉)

<(この世紀が核兵器や有害化学物質を生み出したことは…引用者注)私たちいm差をいきている世代が、未来世代の生命と健康を守る重大な責務を課せられていることを浮かび上がらせている。このようなことは私たちより前に生きた人たち(核時代に入る前の)人にとっては考える必要もなかった。しかし、今日では「未来世代に殺しをかける」というリスクが存在することを知らなければならない。>(綿貫礼子)

以上のような文人の二十世紀の振り返りを読みながら、筆者は二十世紀が恐ろしい世紀であったと再確認します。新しい二十一世紀を迎えるにあたって、未来ばかり見る人から顧みられない二十世紀に絶望する気持ちになっています。しかし、筆者は「絶望」では終わりません。大江健三郎さんの言葉に「希望」を見出して以下のようにのべています。

<子供にとって、もう取り返しがつかない、ということはない。いつも、なんとか取り返すことができる、というのは、人間の世界の「原則」なのです。>
 細菌の歴史は二十億年、引きかえ現世人が出現したのは10−20万年前。つまり人間はまだ子供であると考えたとき、大江さんの言葉は、わたしたちに希望を与えてくれます。「二〇世紀を取り返すのは、二一世紀だ」という希望を。もう、この希望にすがっていきつづけるしかありません。

一つ前の時代を言葉にしてみる

世紀とは違いますが、年号が変わるこの日も節目だと考えています。私は平成に生まれました。平成のすべてを記憶しているわけではありません。しかし時代をひとつ生きたものとして、平成がどのようなものだったかを考える必要があると感じました。

みなさんは令和を迎える今日に何をしていますか?
あなたにとって平成はどんな時代でしたか?

もしかしたら思い起こされることには辛いこともあるかもしれません。自分が経験していないことでも、様々な悲劇が日本を世界を覆っています。それでも「平成をとりかえすのは、令和だ」という希望をもって生き続けて行こうと思います。