日々のこと

パソコンで文章を書けないのを克服するには、まず紙に書こう

パソコンで文章を書けないのを克服するには、まず紙に書こう

毎日ブログを書いていると、自分がどうすれば文章を描きやすく、どうすれば描きにくいのかがわかってくる。私はいきなりパソコンに向かって書き始めることができない。パソコンでいきなり文章を頭から書き始めるとまったく思うようにはかけない。自分の思考がそんなに単純明快ではないのがわかる。

逆に書きやすいのは、紙に一度書いてまとめる時だ。紙に断片的な知識を書いていく。小さなフレーズがたくさん出来上がったあとに、自分の書きたい言葉の全景が立ち上がってくる感じだ。もちろんうまくまとまらない時もあるが、基本的にはノートに書いた段階でなんとなく姿が見えてくるものだ。

紙に書くことで思考が整理されるというメリット

紙に描くということは記憶の外部化でもある。自分の頭の中で考えなくてはいけないことを、外に出すことで一旦忘れる。そうすることで脳内に余白ができて、新たなことを考えるきっかけになる。何かを考えるときには余白が必要だ。人間は一枚の白紙の状態で生まれてくるといったのはロックだったか。辞書を引いてみる。

タブラ‐ラサ〘名〙 (ラテンtabula rāsa 文字の書いてない書き板の意) ロックがデカルトの生得観念に反対して、人間の心は生まれたとき全白紙の状態であり、経験からの印象により知識が成立すると主張した際に用いたことば。精選版日本国語大辞典より

白紙の紙に書くという行為で紙に記録して、頭の中から失わせる。しかし、それにより頭の中の白紙にはどんどんと経験が書き込まれていくのだ。何かが手に入れば何かが手に入らない。トレードオフである。「鋼の錬金術師」というアニメでは等価交換と言っていた。

話を元に戻そう。何かを考えるというときに、そこには考える余白が必要である。忙しくて考える暇もない状態では、思考できていないということすらもわからなくなる。そして、私たちは頭だけで考えることはもう難しくなっている。すでに紙に書くということを怯えてしまったからだ。そして忘れて余白を作るためには、考えるときにはまさに紙が必要になってくる。

なぜ最初からパソコンで書いてはダメなのか:縦と横の思考

パソコンに打ち込んでも忘れられないのだろうか。パソコンのキーボードに僕らが慣れていないからだろうか。一つ感じるのが思考が直線的ではないということだ。無理やり矯正するのが「論理」という気もする。以前、日本の物語構造を翻訳できるかという話があった。夏目漱石を翻訳するとしたときに、文脈がない文章である夏目漱石の吾輩は猫であるが、ヨーロッパの文脈のある文章に慣れた人が読めるかどうかという話だ。

日本人だから文脈のない、直線ではないのが好きなのだろうか。庭を見るとわかりやすいかもしれない。日本のお寺の庭と、フランスのベルサイユ宮殿の庭みたいな違いがそこにはある。

自分は書道の資格を持っているのだが、書道の縦書きと、横書きのタイプライターも全く違うと感じている縦の方が自由度が高く難しいのだ。、いなさんも手紙を書くときに、久しぶりに縦書きだと書きにくいということはないだろうか。

道元の教えに垂直的な時間感覚がある。過去現在未来という水平の時間軸ではなく、一瞬一瞬のイマココを生きるという感覚だ。縦書きと横書きはまさに、垂直と水平の関係である。

手書きで、パソコンとは違う時間軸で物を考え、思考を自由にするにはやはり手書きがいいのだと思う。