こんにちは。しんいちです。
もうそろそろ七夕が近いですね。
七夕というと「星に願いを」、短冊にお願いを書くというものです。
ここで気がついたのは最近「お願い事」をしなくなったな、ということです。
神社でお願い事していないの?と聞かれそうですが、僕はしていません。
まず神様はお願いするときにわざわざ思い浮かべなくても既に知っているから、というもの。
もう一つがいつも最近あった良い出来事に感謝を述べているからです。
つまり「〇〇してください!」というお願いはつい最近していませんでした。
しかし、「こうだったらいいのにな〜」と心の中で思うことは多々あります。
「月収100万円になったらいいのにな」とか「沖縄にいきたいな〜」とか、なんなら「500兆円ほしい!」でも良いと思います。
でも心の中で「思う」ことはあっても、「お願い」することはありませんでした。
七夕を前に「思う・願う・祈る」の違いについて観ていきたいと思います。
#1としたのは、このお話が前編と後編に分かれるからです。
#1では大野晋さんの「古典基礎語辞典」を。
#2では白川静さんの「字訓」を読みながら違いを探っていきます。
「思う」
心中に、感情的なものから、理性定期なものまで一つの壮年をもち、長い時間に渡ってそれを保ち、大事にし続ける意。
これを見るとなんとなく「あっ、沖縄行きたいな」なんて「思う」ことはちょっと違う気がしてきました。「長い時間に渡ってそれを保ち、大事にする」という切実なものが「思う」という行為に値するのです。
「おもふ」と考えたときに「重」という漢字も同じ音をしています。同じ音ということは何か関連があるということです。大野さんの辞典では「必ずしも(「思い」と「重い」は)合っていない」と書かれています。
しかし、僕は関連があるように感じます。重いものは重力がかかり下に向かっていきます。思いが沈殿すると言うか、「腑に落ちる」というように身体の奥に、そして自分の中に沈み込んでいくようなイメージもあるのではないでしょうか。
「願う」
ネガフは、神仏や他人の助力、または、恵みによって自分の求めることが実現するように祈る意。
「思う」とは違って相手、対象がでてきました。ここでは「神仏や他人」とあります。
ここで注意しなくてはいけないのが、「思う」ときも何かを当てにしている可能性があるということです。自分が何かをすると言うよりも、神様なりなんなりの力添えを経て、望んだことが実現されるわけですから。
実際に「思う」の意味を更に調べてみると、
「③胸の中にある望み。心中にあるこうしたいという意志。願い事。」
と書いてありました。
そう考えると、最初に疑問に思った2単語、「思う」と「願う」はある程度似ているのかもしれません。
「祈る」
タブーであることを口にしてそれを呼び寄せるのが原義。
ここで言う「タブー」とは神様の名前などを示します。
「名前」がなんでタブーなんだ、と思う人がいるかも知れませんが、その名をしっているということは大きな力を持つと考えられています。
有名な小説「ゲド戦記」では名前を特に重要視し、親しい家族くらいにしか自分の本当の名前を明かしません。名前を知られるということは死につながるほど重要だと考えられるようです。
こちらはより一層なにかに働きかけている印象があります。
まとめ(仮)
今日は簡単に「思う・願う・祈る」の3つの言葉について大野晋さんの「古典基礎語辞典」をみながら考えてみました。明日は「字訓」です。お楽しみに。