今日は久しぶりに東京で朝から過ごした。
昨日は旅から帰ってきて体調を崩していたので、あっという間に1日が終わってしまった。
朝起きた時のひんやりとした空気にとても驚いた。昨日までタイにいた。
気温は35度ぐらいまで日中は上がっていたので、この温度差は本当に驚く。
朝、目が覚めた時に頬がひんやりするのも、朝起きなければいけない時間にまだ暖かい布団から出たくないという感情も久しぶりだった。
移動をしているといつも訪れる物がなくなる気がする。
例えば、日本にずっといれば、四季は当然のように巡ってくるもので、10月あたりからだんだんと寒くなっていく。
街は紅葉に包まれ、街にいる人の服装もだんだんと厚くなり、茶色っぽかったり黒っぽかったりしている。色が静かに暗くなっていくような四季を感じる街にいれば、そういう風にだんだんと人々の服装が変わるのがわかるし自分の肌でもわかるものだ。だけど、タイから東京の冬に投げ出された私は、あ、そっか、冬ってあるんだだなと、そういう風に急に思い知らされた。
そ考えると、世界で見れば四季があるというのはわりと当たり前ではない。タイには乾季と雨期しかなかった。四季があって、それに伴って気温が大きく変化し、それに植物や動物もその生態を変化させる国にいるわけである。そんな鮮やかな色彩の風土に住んできるからこそ、日本の自然に対する感性は生まれてきたのだろう。
タイでは常に暖かい。クリスマスでも焼けつくような暑さを日中は体に感じる。そう考えると、自分の住んでいる国や場所が持つ力というものに改めて目を向けることになる。
年がら年中暑い国にいるのと、暑さと寒さを数ヶ月ごとに感じる国ではきっと思想も異なってくる。
最近は書かれる言葉や、それに影響を与える風土、そして書く、もしくは語る身体のあり方に興味がある。
そしてデジタルな目に見えない環境が全世界を覆う中でどのような感覚を僕らが持つのか。
落合陽一さんのWeeklyOchiaiの中で、文字は書く物ではなくうつもの(タイピングするもの)と言っていたのがショックだった。たしかに文字を手書きで書くことが少なくなっている人も多いと聞く。
自分は書道をやっていたし、毎日、日記をかいたり、アイデアをノートに書いたりしているので衝撃を受けた。
タイプする文字と、書く文字ではどうも考え方や思想に影響がないわけないように思うのだ。
書道をするときに自分が大事だと思っていたのは余白だ。白い紙に墨をすった黒い墨汁で文字を書いていく。真っ白な紙に筆で文字を書くと、文字にばかり注目があつまってしまうが、書かれなかった空間の方が見栄えにとって大事だったりする。
これはタイピングにはないものだ。
自動的に最適化?されたような文字が目の前の画面に現れるのだから、余白を作り出すような経験もなければ、文字がうまく書けないという葛藤や、逡巡もない。
文字に対する感性が失われているような気がする一方で、思考のダイレクトなアウトプットに近づいている可能性もある。最近はわたしもこのブログをスマホの音声入力で書くことが多い。文字入力の精度はすごいので、実はあまり手直しもしない。
自分が考えたことが、声の速さで書き起こされており、それは思考の速さそのものにだいぶ近く。そのうちに頭の中で考えていることが、そのまま文字としてアウトプットされれば面白いが、それでは自分の口から発する時や、文字に起こすときのフィルターがなくなってしまうことになるので、むずかしいだろう。
「言葉、文字、身体、デジタル化」そういったものが気になったのがここ数日だ。
今日買った本