THOUGHT

読書は芳醇であるという再確認

こんにちは。しんいちです。

今日は普段お世話になっている松葉舎の勉強会の日でした。

最近は「哲学マップ」という本を活用して哲学を概観していました。
しかし、今回は講師の江本さんの友人である森田真生氏の「数学の贈り物」という本を読んだ感想を語り合う場になりました。

本を読むときに、すべての人が同じものを読み解くわけではない

今回は6人の参加者がいて、おのおのが自分の感想を述べました。非常に興味深かったのは(当然のことといえば当然なのですが)興味を持つポイントが違うということです。ダンサーの方はダンスに関わるところに、人工知能の方は自分の経験を照らし合わせて、と思い思いの場所に関心をいだき、また感動していました。

本を読むときに自分が感じること、感動するポイントがちがう。そのような読書の豊かさを改めて感じます。言葉ではなんとなく知っていました。読書は受けてによって受け取り方が違うこと。そして読み手が持っている過去の経験や読んできた本などの知識が、著者の言葉と出会って、新たな関係性を生み出すわけです。

センター試験という読み手の画一化試験

高校受験のときは、受け手によって感想が違うのに、答えが一つに決まっているなんて絶対にかしいと思っていました。今でもはっきりと覚えているのは、センター試験の現代文の問題です。詳細は覚えていませが、文章のある部分で、主人公はどのような感情をいだいているか答えなさい、というものでした。

文章を読んでいて、自分は「主人公が悲しんでいる」という答えが妥当だと思ったのですが、答えは「悲しんでいる」ではありませんでした。しかし、自分はたしかに「悲しんでいる」と感じたので、納得できずに解説を読んでみると、そこには「この部分で悲しいという選択肢はありえあい」とありました。自分は悲しんでいると感じたのに、それは「ありえない」と断定される。なぜそんな風に決めるのか、本当に納得ができなくて、学校の先生に尋ねました。ここで「ありえない」とあるけれど、そうとは言い切れないのではないか、と。

しかし、先生はこれはセンター試験だから、これが答えなのだと納得しなさい、と言われました。自分の感じたことが正面から否定され、憤るとともに、とても寂しい気持ちになったのを今でも覚えています。

そのような経験から、読書は人それぞれが自由に受け取って良いんだ、と頭ではわかっていつつも、誤った受け取り方をしていないかが恐怖として頭の片隅にありました。もしかしたら、この考え方は筆者の意図とは外れているかもれない。間違った解釈かもしれない、と。

読書という行為は芳醇である

今日の読書会で、いままで、それこそセンター試験から続いていた呪縛から解き放たれたような気がします。読書は正解があるものではないということ。そして各々が持っている来歴から受け取るものは完全に異なり、たとえ近くても完全に同じということはありません。

そして松葉舎という場でスペシャリティの違うメンバーがそれぞれに、受け取ったものをそれぞれの言葉と思考で語るときに、一冊の本からさらに多くの領域へと広がっていくのをかんじました。

メモ:抜書の効用

今回の読書会で「抜書」をするのはすごく大切なことだと感じました。「抜書」とは、本を読んでいて気になった部分を、そっくりそのまま書き写して保存しておくことです。

例えば、自分が気になった言葉だけを保存しておけて、それを見返すことができる。もう一つは他人に説明するときに、ブログに書くときに、本文から引用するほうが言葉が抜け落ちないからです。また、ちゃんと引用することでその本の権威性を担保されることもできます。

とゆうことで、これからは自分が読んだ本からどんどん抜書をしていこうと思います。

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