日々のこと

【七夕】日本と中国の文化の合わさったものでした(日本の文化の多様性について語源から考えます)

こんにちは。しんいちです。

今日は平塚の七夕まつりに行ってきました。
日本三大七夕まつりの一つのようで、非常に多くの人々で賑わっていました。

七夕飾りで街が彩られ、短冊に願いが込められています。

では七夕とは本来どのような行事なのでしょうか?

七夕の概要:織姫と彦星・短冊

みなさんは七夕というとどのようなイメージをもっていますか?
僕はざっくりと以下の二点を把握しています。

・短冊に願い事を書く日
・織姫と彦星が一年に一回だけ会える日

でも疑問に思ったのが、「七夕」と書いてなぜ「たなばた」と読むのでしょうか?

普通に読んだら「しちせき」とかだと思いませんか?
なんとなく当て字な気がします。

七夕の起源:中国と日本の行事の混合

七夕まつりの語源について調べてみると、日本には「棚機津女(たなばたつめ)」という言葉があったことがわかりました。

「棚機津女」とは何でしょうか?折口信夫の説明を観てみましょう。

此棚にいて、はた織る少女が、即棚機つ女である。(中略)我々の古代には、かうした少女が一人、或はそれを中心とした数人の少女が、夏秋交叉ユキアヒの時期を、邑落離れた棚の上に隔離せられて、新に、海或は海に通ずる川から、来り臨む若神の為に、機を織つてゐたのであつた。

https://www.aozora.gr.jp/cards/000933/files/13216_14467.html

ざっくりとまとめると夏から秋にかけての時期に、身を清め、翌年の豊作を願い、やってくる神様のために少女が着物を織るという文化があったようです。

この「棚機津女」が日本に古来根付いていた文化でした。

そこにやってきたのが中国の「きっこうでん(乞巧奠)」でした。精選国語辞典によると

きっこう‐でんキッカウ‥【乞巧奠】
乞巧奠〈公事十二ケ月絵巻〉
 
〘名〙 陰暦七月七日の行事。乞巧は技工、芸能の上達を願う祭。もと中国の行事であるが、日本でも奈良時代以来、宮中の節会せちえとしてとり入れられ、在来の棚機津女たなばたつめの伝説や祓はらえの行事とも結びつき、民間にも普及して現在の七夕行事となった。きこうでん。きぎょうでん。乞巧祭会きこうさいえ。乞巧。《季・秋》
*中右記−嘉保二年(1095)七月七日
「主上渡御中宮御方、乞巧奠前召㆓伶人両三人㆒」

もとは中国で美しい機を織る織姫にあやかり機織りの上達を祈るものでした。

ちなみに織姫に祈ることについて、太宰治は以下のように書いています。

一年にいちどの逢う瀬をたのしもうとしている夜に、下界からわいわい陳情が殺到しては、せっかくの一夜も、めちゃ苦茶になってしまうだろうに。けれども、織女星も、その夜はご自分にも、よい事のある一夜なのだから、仕方なく下界の女の子たちの願いを聞きいれてやらざるを得ないだろう。女の子たちは、そんな織女星の弱味に附け込んで遠慮会釈えしゃくもなく、どしどし願いを申し出るのだ。

https://www.aozora.gr.jp/cards/000035/files/1093_20123.html

太宰らしい少し皮肉な語り口ですねw

中国の「乞巧奠」と、日本の「棚機津女」の行事が合わさったのが、現在日本の「七夕」です。

中国と日本の文化の融合:文化の受容について

こうみると日本に中国の文化が独特な形で受容されたなと思います。

日本は漢字を独自に受け入れ、仏教も現世利益的に改変された。

七夕について、芥川龍之介の「神々の微笑み」で言及されています。

この物語は日本でキリスト教を布教しようと苦心する神父・オルガンティノが、日本の神々の幻影と出会うお話です。日本の神々は、日本の文化の受容性についてかたります。

まあ、御聞きなさい。はるばるこの国へ渡って来たのは、泥烏須デウスばかりではありません。孔子こうし、孟子もうし、荘子そうし、――そのほか支那からは哲人たちが、何人もこの国へ渡って来ました。しかも当時はこの国が、まだ生まれたばかりだったのです。支那の哲人たちは道のほかにも、呉ごの国の絹だの秦しんの国の玉だの、いろいろな物を持って来ました。いや、そう云う宝よりも尊い、霊妙れいみょうな文字さえ持って来たのです。が、支那はそのために、我々を征服出来たでしょうか? たとえば文字もじを御覧なさい。文字は我々を征服する代りに、我々のために征服されました。私が昔知っていた土人に、柿かきの本もとの人麻呂ひとまろと云う詩人があります。その男の作った七夕たなばたの歌は、今でもこの国に残っていますが、あれを読んで御覧なさい。牽牛織女けんぎゅうしょくじょはあの中に見出す事は出来ません。あそこに歌われた恋人同士は飽あくまでも彦星ひこぼしと棚機津女たなばたつめとです。彼等の枕に響いたのは、ちょうどこの国の川のように、清い天あまの川がわの瀬音せおとでした。支那の黄河こうがや揚子江ようすこうに似た、銀河ぎんがの浪音ではなかったのです。


https://www.aozora.gr.jp/cards/000879/files/68_15177.html